百騎で魏営へ突入し、八百人で関羽軍三万人を退散させた伝説?~江東虎臣「甘寧」~
三国の歴史において、このような人物がいました:10代前半の頃から気概があって遊侠を好んだ彼は、不良の若者を集め派手に武装させて、自身を頭領とする徒党を組んでいました。また、荊州の劉表、江夏の黄祖に身を寄せましたが重用されませんでした。その後、呂蒙に推薦され、東呉の将軍印を受けて東呉の虎臣の一員となりました。孫権は「曹操には張遼がいて、余には甘寧がいる。これでちょうど釣り合いが取れているのだ。」と彼を高く評価しました。この人物は東呉虎臣の甘寧興覇です。この文章では、甘寧の生涯について解説します。
PART 1
ファンキーなヤンキー
甘寧(かんねい)は当時のファンキーを極めた人物でした。彼と仲間たちは羽飾りを背負い、常に鈴を携えていたので、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったと言います。勝手な気焔をあげる一方で、荒削りな性格でもあり、三国時代においてはかなり独特な人物です。
ファンキーな一面だけでなく、彼はヤンキーの頭としての一面も持っていました。力ばかりが強く、無学無能な若者たちに囲まれ、派手な装いで外出し、陸路や水路を闊歩した(『呉書』)。これは正に三国時代の不良グループと言えるでしょう。
甘寧、字は興覇、巴郡臨江の人である。若くして気力にあふれて游俠を好み、軽薄な少年たちをかき集めて彼らの渠帥になっていた(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
不良グループという以上、彼らが善事を行うことはありませんでした。甘寧は他人と出くわした時、顔を立ててくれる相手とは仲良くしましたが、そうでない相手に対しては暴力団のように財産を奪うこともしばしばありました。
他人が彼らと出くわしたとき、属城の長吏ほどの者が盛大にもてなして初めて満足するが、そうでなければ、配下の者を放ってその人の財産を奪わせた(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
もし甘寧がこのまま好き勝手なことを続けていれば、いつか諸侯に殲滅させられるか、帰順させられるかの二択だったでしょう。世に知られずに一生を終わる可能性や、戦場で無名の死骸になる可能性もありました。
しかし、英雄たる者は必ず特別な素質を持っています。甘寧は20歳になると、急に自分を変えようと思い始めたのでした。
PART 2
博学なヤンキー
甘寧が20歳になった時、他のヤンキーが一生かけても分からない理を悟りました。何よりも学問が一番大切である、ということです。そう悟った甘寧はこれまでの生活を改め、読書に励みました。彼の閲読量は非常に多く、諸子百家、幅広い分野の本を読んで学びました。
二十年余りも経ってから、ばったりと乱暴を働かなくなり、少しは諸子を読むようになった(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
知識が身についた甘寧は、自然と志を立てるようになりました。そのため、甘寧は荊州の劉表に身を寄せ、運を試してみようと思ったのです。しかし、劉表は甘寧を重用せず、彼を自分の配下である黄祖に薦めました。黄祖もまた同様に彼を重用せず、ただの一般食客として扱いました。
それから劉表の元へ行って身を寄せ、南陽に住まいしたが、任用されることはなかった。のちに改めて黄祖に身を寄せたが、黄祖もまた凡人として扱うだけだった(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
志を立てた甘寧は、一般食客としての生活を続けるはずもなく、間もなく東呉へ行きました。そこでは運に恵まれ、権力者の周瑜と呂蒙の推薦により、東呉の大ボスである孫権に出会います。そして、孫権は甘寧の能力に感銘を受け、重用したのでした。
こうして呉に身を寄せることになった。周瑜・呂蒙がみな連名で推薦したので、孫権も目をかけて旧臣同様に遇した(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
こうして甘寧はファンキーなヤンキーから、東呉勢力の高層へと成り上がり、自分の価値を証明したのでした。
PART 3
寡をもって衆に当たる
甘寧は東呉勢力に加入した後、期待を裏切らず、黄祖討伐の戦役で大きな功績をあげました。過去に重用されなかった仇を取ったのです。それから、甘寧は軍勢を預けられることになり、当口にたむろさせました。
孫権は甘寧に酒を注ぎながら言った。「興霸よ。今年の征討は、ちょうどこの酒のように、卿へ委ねることに決めているのだ。卿はただ計略を練ることに専念して欲しい。黄祖に必ず勝てるようにしてくれれば、それが卿の功績なのだ。どうして張長史の言葉を気にする必要があろうか?」孫権はついに西進して、しかと黄祖を捕らえ、ことごとくその軍勢を手に入れた。こうして甘寧に軍勢を預け、当口に屯させた(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
軍勢を預けられた甘寧は、独立して作戦を立てることができるので大喜びでした。彼は、ようやく自分の価値を証明する時が来たと思いました。そしてこの時、一人の名高い強敵:関羽と出会います。
当時の関羽は既に名を馳せた名将でした。一方で、甘寧の名声は呉国内でしか知られていません。二人の実力はかけ離れていました。そして兵力では、関羽は三万の軍勢を有しており、その中から五千名の精鋭を選び、江を渡ろうとしていました。一方、甘寧部隊は三百人しかいません。あまりにも兵力の差が大きく、この戦いの勝敗は既に決まっているものと思われました。
関羽は軍勢三万人を抱えていると喧伝しつつ、精鋭五千人を自ら選りすぐり、県の上流十里余りに位置する浅瀬に投入、夜中に渡るつもりだと吹聴していた。魯粛が諸将と協議したとき、甘寧はこのとき三百の兵士を抱えていた(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
しかし、甘寧の考えは違います。彼は、もう五百人の兵士さえいれば、関羽を恐れる必要などないと言い、もし関羽が川を渡れば必ず倒すと約束しました。
「さらに五百人を吾へ加増していただければ、吾が行ってきて対応いたしましょう。吾のしわぶきを聞いただけで、関羽は川を渡ろうといたしますまい。保証いたしますぞ。川を渡れば吾の捕虜になりますからな」と言った(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
当時、甘寧の上司であった魯粛は、甘寧の言葉を信じて千名の兵士を甘寧に預けました。自分の要求をはるかに超えた兵力を得た甘寧は、部隊を率いて関羽の迎撃戦へ向かいます。
この情報を耳にした関羽は、罠があると警戒し、川を渡らずに川の隣で駐屯することにしました。この時に関羽が駐屯した場所は、現在「関羽瀬」と呼ばれています。
魯粛は早速、千人の兵士を選抜して甘寧に預けた。甘寧が夜中に出陣すると、関羽はそれを聞いて渡ろうとはせず、にわか仕立ての陣営を築いた。現在では、この場所が関羽瀬と名付けられている(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
甘寧は虚勢を張ることで関羽の進撃を止めました。これは甘寧の人生で一番輝いていた瞬間と言えるでしょう。この自信と度胸で行った博打は、甘寧の勝利でした。それ以降、彼の名は三国時代の如何なる名将とでも同列に論じられるようになり、ようやく自分の価値を証明したのでした。
PART 4
険しき封侯への道
馮唐易老(馮唐は諸侯になれずに年を取り)、李広難封(李広もついに諸侯にはなれなかった)。乱世に生まれた英雄豪傑たちの最大の目標は、諸侯の列に連なることです。名将だった李広は一生かけてもこの願いを叶えられませんでしたが、それから三百年の時を経た三国時代、甘寧も同じ運命でした。
功績では、甘寧は東呉の将領の中でも先頭に立っています。経歴では、彼は早期に東呉に加入した将領でした。名声では、リーダーの孫権が「張遼に敵える」と甘寧のことを高く評価しています。実績では、彼は関羽を撃退したこともあります。しかし、彼の敵たちが封侯された時(関羽は漢寿亭侯、諡号が蜀漢壮繆侯。張遼は晋陽侯、諡号が剛侯)、甘寧はただの西陵太守、折衝将軍でした。このような結果になったのは、彼の性格が関わっていると筆者は思います。甘寧は浮かれやすい性格で、気性が荒く、荒削りな面があります。さっぱりしているところは彼の長所でもあるが、そのせいで他人の機嫌を損ねたり、恨みを買ったりすることも少なくありませんでした。魯粛や呂蒙はもちろん、彼は孫権でさえ眼中に置きませんでした。武将としては優秀ですが、諸侯の列に連なるには力不足だったのです。
甘寧は諸侯になれませんでした。その死についての描写も、「字を惜しむこと金の如し」と言われる『三国志』で、数文字しか使われませんでした。その過程についての描写も一切ありません。
甘寧が卒去すると、孫権は彼のことを痛惜したものであった。子の甘瓌は罪にかかって会稽に移住させられ、ほどなくして死んだ(『三国志・甘寧伝』により抜粋)。
『三国志』の作者である陳寿は、謹厳な学者として、甘寧の死亡過程についての明確な証拠がない前提で、その過程を省略するしかありませんでした。一方、『三国志演義』では、民間の伝説を用いてその死を記載しています。『三国志演義』によると、甘寧は夷陵の戦いで、蜀漢の将領に矢で頭部を射られたが、その蜀漢の将領を刀で殺し、自分の仇を取った後、木の下に座って息を引き取ったと言われています。
PART 5
三国志真戦での甘寧
歴史上の甘寧の物語も面白いが、ゲーム内の甘寧も武将として輝いています。
基本属性
甘寧の基礎属性は非常に優秀です。武力と速度は全ての武将の中でもトップクラスで、更に兵種適正もSレベルが3つ、Aレベルが2つという素晴らしい全能型武将です。
固有戦法【錦帆百翎】
パッシブ:自分の会心率とダメージを増加させ、自分が主将の場合は部隊の会心率とダメージも増加させる。単純な増益戦法。
継承戦法【百騎劫営】
突撃戦法で、ダメージが高い。発動率とダメージが高いため、数多くの突撃戦法の中でも優先度が高い方である。
戦法の組合せについて、兵刃ダメージを出せる戦法との相性が良いです。その中でも、最も甘寧にふさわしい戦法は紛れもなく万矢斉射です。発動確率も考慮すると、万矢斉射はダメージ率と発動確率を兼備した兵刃ダメージ戦法と言えます。一方、万夫不当は、ダメージ率は高いが、発動確率が比較的に低く、弓兵には適していません。
推奨陣容
陣容編制について、呉国は優秀な槍兵武将がいないため、通常、甘寧は弓兵を使います。
甘寧:万矢斉射+避実撃虚
太史慈:折衝禦侮+射石飲羽
程普:白馬義従/唇槍舌戦/挑発戦法/千里馳援/守而必固
甘寧がメインアタッカーで、太史慈と程普が制御効果+保護を提供します。
終わりに
甘寧の生涯は伝奇的です。少年時代の彼は、あの時代においてのファンキーな「変わり者」でしたが、二十歳になってからは学問に努めるようになり、中年時代は功績を立て、自分の「キャリア」を持つようになりました。しかし、最大の目標:封侯は達成できず、死の過程も他の武将とは違っていました。甘寧にとって、人生はただのゲームだったのかもしれません。ヤンキーとしての甘寧も、武将としての甘寧もどちらも立派でした。彼はどんな領域においても成功できる人物です。
では、今回の【三国物語館】は以上になります。次回またお会いしましょう。
本記事は別リージョンのプレイヤーがまとめた記事を運営が編集したものです。参考としてご覧ください。