漢中の戦い

217年冬から219年5月にかけて、劉備は漢中を手に入れるために曹操軍との決戦に臨みました。

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その結果、一年余りの苦戦の末に曹操軍は撤兵し、劉備が漢中地方を占領しました。

幾度となく曹操軍と戦い、敗戦を期してきた劉備は、ついに曹操軍との戦いで勝利を収めました。この戦いで劉備が得た経験は、後世に語り継がれるべきものでしょう。

しかし、赤壁の戦いで、既に劉備は曹操に勝っているのではないかと思う人もいるかもしれません。

 

実際のところ、赤壁の戦いに参加した劉備は、周瑜の後ろで静観の姿勢を貫いていました。自ら作戦部隊の投入や、謀略上で貢献したという話はありません。そのため、赤壁の戦いは、周瑜と孫権軍の勝利と言えるでしょう。

一、漢中の地理位置

漢中地方の重要性は、魏と蜀では全く異なります。

漢中地方は秦嶺と大巴山脈に囲まれた盆地にあり、北方は秦嶺山脈で魏国の渭水盆地(関中)と南は大巴山脈で四川盆地(巴蜀)と画されており、関中から巴蜀への最も重要な交通要道です。秦嶺は大巴山脈より峻険なので、巴蜀を守るには、戦略上でも戦術上でも、大巴山脈を利用するより秦嶺山脈を利用して北方からの攻撃を防ぐことが得策でした。

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そのため、法正が漢中の重要性について、「チャンスがあれば曹操の支配を覆して、漢室を回復させ、大きな成功が無くとも、雍州と涼州に領土を広げていき、要害を堅く守ることで、国を長く保つ事が出来ます。」と述べました。楊洪が諸葛亮に漢中の重要性を強調した際も、「漢中は益州の喉元にあたる地域で、存亡の分かれ目となる要所です。もしも漢中を失えば、蜀は存立できず、家門の災いとなるでしょう。」と述べました。

漢中の戦いにおいても、どれほど漢中が重要だったかが伺えます。劉備は巴蜀の存亡の瀬戸際においても、全ての精鋭部隊及び優秀な将領・策士を動員し、一年半かけて漢中を手に入れようとしたのです。

 

二、双方の参戦兵力

曹操軍の兵力投入は二つの段階に分けられています。第一段階:曹操が漢中に到着する前(217年冬から219年1月まで)。

 

参戦した(魏国の)将領:夏侯淵、張郃、徐晃、曹洪、曹真、郭淮など、兵数は確かでないがおよそ2.5万~3万人。第二段階:曹操が漢中に到着した(219年2月)後から戦役が終了するまで。曹操及びその中央機動部隊、兵数は確かでないがおよそ2万~3万人。参戦総兵数は約5~6万人。当時、曹操の配下には五名の大将がいました。張遼、楽進は東戦線の合肥、于禁は南戦線の荊州、張郃、徐晃は漢中戦線を担当しました。そして曹操の親族将領たちも、夏侯敦は東戦線、曹仁は南戦線、夏侯淵、曹洪、曹真は漢中戦線を担当しました。つまり、曹操は漢中に相当数の主力部隊を投入しました。

劉備軍の兵力投入も二つの段階に分けられています。

第一段階:劉備が成都から増援を出す前。

参戦した(蜀国の)将領は:劉備、法正、趙雲、張飛、馬超、黄忠、魏延、陳式、高詳、呉蘭、雷銅、任夔、劉封。兵数は確かでないがおよそ4万~5万人、劉備が荊州から連れてきた主力部隊と一部の投降した劉璋軍です。第二段階:劉備が成都から増援を出した後。増援兵数は確かでないが、成都を守備する劉璋軍の投降者により再編された部隊2~3万人と推量されています。参戦総兵数は約6~8万人です。

 

三、戦役の流れ

この戦役は三つの段階に分けられます。第一段階:劉備軍が全面進撃するも、曹操軍の積極的な防御により挫折しました。第二段階:劉備軍が兵力を増やして集中攻撃を仕掛け、定軍山で曹操軍を大破しました。第三段階:曹操軍の主力が漢中に到着するも、劉備は守備を固めたため、曹操軍はやむを得ず撤兵しました。

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第一段階:217年の冬から218年末まで、劉備は法正の進言を受け、主力部隊を集めて漢中の争奪に出ました。

具体的には、劉備は法正、黄忠、魏延、趙雲、高詳、劉封などの将領を率いて夏侯淵軍が守備を固めている漢中への要道である陽平関を攻撃し、陽平関を占領することで曹操軍を漢中から駆逐しようとしていました。張飛、馬超、呉蘭、雷銅、任夔などの武将は武都郡(下辯付近)を攻撃し、曹操軍が隴右地区から漢中へ兵士や糧秣を輸送する道を分断しながら、劉備の主力部隊の安全を保とうとしていました。一方、曹操軍は夏侯淵の主力部隊で陽平関を固守しながら、張郃軍が漢中の門戸を確保するために広石を固守しました。そして曹洪、曹真軍が張飛部隊と対抗し、陽平関の側面と西方面の糧秣輸送道を確保しようとしていました。徐晃軍は陽平関の後方の安全を確保するために馬鳴閣から陽平までの地区を守ることにしました。

217年冬、劉備軍は成都から漢中へ進軍、同時に張飛軍が下辯へ進軍しました。西暦218年春、張飛軍が下辯に到着、曹洪軍と対峙しました。張飛が兵力を分け、曹洪軍の後ろから襲撃しようとしたが曹真らに見破られ、前軍の呉蘭軍などは曹洪軍の主力に撃破されてしまい、雷銅、任夔が戦死し、呉蘭は少数民族の領地に逃げ込んだが殺されてしまいました。有利な地を曹操軍に占領されたことで、張飛は攻撃を仕掛けることができなくなり、自軍の損失を考慮して武都地区から撤兵しました。

張飛軍は計2万人いましたが、この作戦で5,000人の兵力と3名の大将を失いました。劉備の主力部隊は夏侯淵、張郃軍と陽平関付近で対峙していましたが、劉備は何度も攻撃に失敗し損失を被りました。

218年7月、劉備は陽平関の北方面の道を断ち、後方から陽平関に圧をかけるために、馬鳴閣道への攻撃任務を陳式に任せました。陳式軍は徐晃軍に敗れ、大きな損失を被りました。狭い山道のため、転げ落ちた兵士も数多くいました。

この時点で、劉備の漢中占領計画は挫折したと言えます。劉備軍の主力部隊は陽平関を落とせず、両側部隊の作戦が失敗したため、曹操軍は劉備軍の主力部隊の両側の安全を脅かすことができました。劉備軍の兵力損失は大きなものでした(総損失はおよそ1~1.5万人)。劉備はやむを得ず、成都の守備軍を前線まで召集するしかありませんでした。

 

第二段階:219年1月、諸葛亮が成都の守備軍を全て漢中へ派遣し、劉備を危機から救いました。

同年1月、劉備は陽平を攻撃することをあきらめ、漢水を渡り、定軍山付近へ移動し、夏侯淵軍を難攻不落の陣地から誘い出し、戦機を見つけようとしていました。夏侯淵は、この策に引っかかり張郃と共に部隊を率いて漢水を渡り、定軍山に駐屯しました。劉備は「声東撃西」の戦術を用い、張郃軍が守備している東方面を攻撃しました。夏侯淵は張郃軍の兵力不足を恐れ、兵力の半分を張郃軍に分けて増援をしました。

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そして劉備は、夏侯淵が守備している西方面の外囲いを火攻めにしました。消火のために駐屯地を出た夏侯淵は、待ち伏せしていた黄忠に突撃されました。黄忠が油断した夏侯淵を斬り、その残軍を撃破し、益州刺史の趙顒も同時に戦死しました。張郃軍だけでは定軍山の駐屯地を守ることができず、やむを得ず撤兵することとなりました。

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夏侯淵配下の郭淮らが張郃を残りの部隊の指揮官として推挙しました。一方、劉備軍は漢水を渡って張郃軍を追撃しようとしていました。それに対して、張郃は川に沿って狙撃しようとしていたが、郭淮は「川に沿って狙撃するのは、弱みを見せる恐れがあるため、更に後ろへ移動し、劉備軍が川を渡り始めてから攻撃すべき」と進言し、張郃はその進言を受けました。劉備軍はその姿勢を見て、無理やり追撃するのは危険だと考え、川を渡ることをあきらめました。張郃は部隊を率いて陽平関へ戻り、守備を固めました。

夏侯淵が戦死し、自軍が大きな損失を被り、危険な状況だと感じた曹操は陽平への支援を曹真に命じました。曹真が到着した後、徐晃軍を指揮して劉備方面の高詳軍を破り、戦局を落ち着かせました。

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第三段階:219年2月~5月 219年2月、夏侯淵が戦死したと聞いた曹操は、自ら長安から陽平に足を運び、劉備軍の主力部隊と決戦しようとしていました。曹操は218年7月に鄴から出発し、同年9月に長安に到着しました。しかし、翌10月に宛城の守備将領侯音が反乱を起こしました。当時漢中の戦局は安定していたため、曹操は長安に残って戦局の発展を観察してから次の行動(宛城反乱の平定に支援するなど)を決めることにしました。

219年3~5月、劉備は大巴山脈の険しい地形を利用し守備を固めたため、曹操の攻撃は効果がありませんでした。曹操軍の物資輸送ルートは距離があまりにも長く、物資輸送の途中で常に劉備軍に襲われていたため、物資の保障ができなかった曹操は、全ての部隊を漢中から撤兵させることにしました。

この前後で撤退した人数は、漢中の居民8万人と武都郡の少数民族5万人。漢中戦役はついに終わりを迎えました。

 

四、得られた教訓

劉備軍にとって、この戦役で得られた教訓は以下の通りです。

1、重視することが大切 漢中地区が巴蜀にとっての重要性が高いことを踏まえ、劉備は今回の戦役で関羽軍以外の全ての主力部隊を投入しました。巴蜀の全ての主要将領・謀臣がこの戦役に参加しました。その中でも、法正は戦略と戦術でその手腕を発揮し、大きく貢献しました。曹操も「玄徳はこのような戦法を考えられるわけがない。誰かに教えてもらったに違いない」と述べていました。夏侯淵に突撃を仕掛けるタイミングも法正が決めたものでした。

2、適切な戦略・戦術 曹操軍の主力部隊が到着する前に、劉備軍は積極的に攻める戦略を用いました。最初はうまくいかなかったが、劉備は攻める戦略を貫き、曹操軍の主力部隊が到着する前に夏侯淵を撃破し、主導権を握りました。一方、曹操軍の主力部隊が到着した後、劉備は守備を固める戦略を実行し始めました。曹操軍の攻撃は効かず、物資の補給もなく、士気が低下する一方でした。その後、曹操軍は撤兵し、劉備は漢中を占領することができました。

3、後方の支援 諸葛亮は後方にいたため、この戦いに参戦していませんが、物資の供給は保障しました。劉備の危機存亡の際にも増援部隊を派遣し、対夏侯淵戦の勝利を確実なものにしました。

4、将領から兵士まで全員命がけの作戦 巴蜀の全ての将領と兵士が、漢中の重要性について理解しているでしょう。自らを犠牲に、彼らは命懸けで曹操軍と戦いました。劉備軍はこの戦いで大将3名、兵士1.5万人を失いました。

有名な漢中の戦いのあらすじは以上です。曹操と劉備の戦いは実に素晴らしかったですね。次の物語館は、三国時代のどの戦役を紹介しましょうか?楽しみにしていてください。

 

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